滝山城築城記(5)-北条氏と弁財天-
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みなさん、こんにちは。
ただいま、八王子市より受託した滝山城の城ラマの製作中で、その様子をブログにしております。
滝山城には「弁天池」という池がありました。
現在は水を溜めていた土手が崩れてしまっているので水は溜まっていませんが、その一角に方墳のように盛り上がった場所があり、「弁天島」と呼ばれています。
(弁天池と弁天島)
ここには弁財天が祀られていた、ということで弁天島の名がついているのですが、北条氏の城に興味がある人は「弁財天」というのは聞き慣れたた言葉かもしれないですね。
そう、北条氏の本拠地でもある小田原城には「弁財天曲輪」が存在しているし、埼玉県の寄居町にある鉢形城にも「弁天社」があったとされています。
なぜ、弁財天なのか?
現在の私達が弁財天に行くと「お金がたまりますように~」というのも多いと思いますが、当然ながら北条氏は金運上昇の為に弁財天を祀っていたのではないと思います(笑)
それをひも解くには、小田原北条氏が鎌倉北条氏との関わりを意識していることがポイントになりそうです。
皆さんもご存知の通り小田原北条氏は早雲までは伊勢氏を称していました。
伊勢氏と鎌倉北条氏との血縁関係はないのですが、氏綱以降北条氏を名乗り、同時に家紋も鎌倉北条氏の使用していたミツウロコ、ゼルダの伝説でいうところのトライフォース(笑)も小田原北条氏は使い始めます。
ちなみに私はゼルダ派かドラクエ派かと問われたら間違いなくゼルダ派と言います。詳しくはこちらのブログへ⇒増山城築城!(6)-ゼルダ派かドラクエ派か-
(ミツウロコ?トライフォース?)
このミツウロコ、鎌倉北条氏とも深い関わりのある江の島弁財天と関係していて、次のような言い伝えがあります。
鎌倉北条氏の祖とされている北条時政がこの江の島で子孫繫栄を祈願していたところ、大蛇が現れ三つの鱗を落とした言ったと。時政は祈願成就と歓び、北条氏はその時以来ミツウロコが家紋になったとか。
(龍の伝説が残る江の島神社の龍宮大神。これは弁財天ではなく、明治の神仏分離令により現在弁財天は江の島神社の摂社となっています)
伊勢氏が北条氏を名乗ったのは、「北条」という名の関東におけるネームバリューが欲しかった、みたいな話もありますが、単なる名前や家紋という「外側」だけではなく、評定という合議制を行うなど、「内側」も積極的に「北条化」を計った形跡がみられます。
さらに言うと、当時の宗教は現在の我々よりもはるかに生活に密着しており、ある意味1つの宗教基盤は独立した経済基盤ともとらえることができるのです。その寺社勢力を取り組んでいくことは、政治基盤だけではなく経済基盤の安定にも欠かせなかったので、鎌倉北条氏の宗教基盤であった鶴岡八幡宮を代表とする八幡信仰や、江の島弁財天を代表する弁財天信仰も積極的に取り込んでいったのではないでしょうか。
ですから、そういう意味で小田原北条氏の城、特に一門の大事な城には弁財天関連の名前が付いた場所が多いのだと思います。
さて、話は滝山城に戻ります。
弁財天は元はインドの河神が日本に渡来してきたものであり水との関係が深かったので、水辺や池に祀られていることが多く、またもともとあった竜神信仰と習合し、「龍」が祀られていたりもします。
ちなみに氏照は「如意成就」と刻まれた龍の印章を使っていましたので、「龍」を意識していたのは間違いありません。
なので、城内の溜池に弁天様が祀られているのはオーソドックスな形式なのですが、はたして氏照は溜池をつくったから弁財天を祀ったのでしょうか。
もちろんため池をつくることは、城内の水の確保はもちろん、城下への農業用水の確保などの理由もあったと思いますが、逆もまた真なりということわざもある通り、弁財天を祀る空間をわざわざ作るために、ため池を作った、ということも言えると思います。
何度も言いますが、当時の人の宗教観は私達のそれとはかなり違っていて、生活に、人生にかなり密接していたのだと思います。
戦国時代の記録にも、「〇〇の戦に勝ったあかつきには、△△を与える」みたいな戦国武将が寺社にあてた祈願文が残っていますが、実際に勝ったら本当に恩賞を与えています。彼らのなかに、神様や仏様と自分自身の関係性にその因果関係が見いだせなければ、そもそもそんな祈願はしませんし、実際に恩賞を与えなくても何ら問題はないはずです。
でも彼らはそれをちゃんとやっていますから、弁財天のご加護を受けるために、龍が住みやすい環境をつくってあげることは理にかなっています。
つまり、当時は政治や経済と宗教が全く相反していないというか、全部繋がっていたのだと思います。
ということを考えると、弁天島のあった場所は滝山城にとって非常に重要な場所であったはずです。城の精神的中心の場所と言ってもいいかもしれませんので、そこにはそれを象徴する何かがあったはずです。
まずは弁天島にかつてあったであろう、「社」。でもそれだけではなく、「社」と城の主たる「氏照」を繋ぐための空間が必要だと考えました。
それをどこに設定しようかと考えていたのですが、藤井氏の助言もあり、本丸の西下にあるちょっと不思議な形の土塁がある曲輪に設定しました。
そこに二階建ての櫓を配し、常に氏照が弁天様、いえ「龍」と向かい合える場所。そういう空間を作りました。
もちろん正式参拝としては、船で渡るのが基本なので、船もジオラマには用意する予定です。
1/1500の城ラマの世界。
単に城の縄張りや形だけを作っているのではなく、そのような文化的、宗教的要素も考えながら一つ一つの空間にしっかりと意味を持たせて作っております。
その辺りも感じ取って頂きながら城ラマを見ていただくと、また面白いと思います。
現在鋭意製作中です。
完成を楽しみにしていてください。
今日は以上です!