滝山城築城記(4)-永禄12年に思いをはせる-
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みなさん、こんにちは。
滝山城は永禄12(1569)年に武田勢に攻められています。
この時に二ノ丸まで攻められ、氏照は滝山城の防御に不安を抱き、八王子城への移転につながったとかなんとか・・・そのような話を聞いたことがあると思います。
(八王子城の城ラマ)
これは、滝山城に欠点があった~みたいな話ではなく、氏照が八王子に移ったのは、甲相の国境の防衛を固める為でしょう。
藤井氏の説によれば、永禄12年の武田勢の侵入以前には小仏峠ルートはまだ開通しておらず、永禄12年の武田(小山田)勢の侵攻によって初めてルートができたとしています。
そして北条と武田は長らく同盟関係にあったので、滝山城は南側からの敵の襲来にはあまり注意を払う必要がなかったということになります。
たしかに滝山城の北側は多摩川の河岸段丘で敵を防ぐ構造になっていて、まさに壁のように敵を威圧しますが、南側はかなりガードが甘いです。
(多摩川方面からは比高差で50m以上の段丘が続く)
周囲の情勢の変化により、氏照は敵の来襲がより高く予想される場所に移ったということであり、滝山城の堅城ぶりにはなんの疑いもないと考えます。というか、今回の調査でさらに「滝山城、ぱねぇ!」って思いましたよ。
(横堀によって敵を寄せ付けない堅城ぶりを見せつけてくれます)
さて、私はお城を見る時は常に「当時はどうだったのか?」ということを意識しながら見ます。
また、同じ大名のお城にはどこかしら共通点があることも珍しくありませんので、あるお城で崩れてしまって原型が分からなくなっている遺構の復元に、別の城の遺構が参考になることもあるのです。
なので、いつもお城歩きは真剣そのものです(笑)
今回は永禄12年の武田勢との戦いで、北条氏照と武田勝頼が直接槍を合わせたという伝説がある、東馬出から二の丸にかけての調査記録を動画にしました。
今回は藤井氏があるお城を参考に東馬出虎口の復元を導き出しました。
なかなか面白い考察になっていると思います。
是非ご覧になってください。