HOME > 城ラマシリーズ > 城ラマシリーズ第二弾 遠州高天神城 > 遠州高天神城とは
高天神城跡は遠く遠州灘を望む標高130mの鶴翁山にあり、三方が断崖絶壁、一方が尾根続きで自然の地形を利用した要害です。昔から「高天神城を制すものは遠江を制す」とも言われていましたが、攻めることが難しく遠州隋一の堅城であったことに加え、東側の菊川周辺は江戸時代の地震で隆起した場所で当時は入江であり、浜ノ浦という港による海上運送の重要拠点でもありました。高天神城は地形上井戸曲輪とよばれている場所を要として東峰と西峰に分かれていて、東西それぞれに主郭となる曲輪が存在しています。東峰の「本丸」と呼ばれている場所と西峰の「西丸(丹波曲輪)」と呼ばれている場所です。このような東峰と西峰が単独でも城郭として機能する城を「一城別郭の城」と呼んでいます。高天神城の築城の時期は明らかではありませんが、はっきりと確認できるのは永正年間に今川氏の城として機能していたことです。今川氏の滅亡後は徳川氏が領有し、天正2年(1574年)に武田勝頼により攻め落とされました。勝頼はこの高天神城を攻略したことにより大いに武名を上げました。その後武田氏が領有していた高天神城をこんどは逆に徳川家康が足掛け5年にわたり攻め続け、天正9年(1581年)に攻め落としました。その後しばらくして廃城となりました。
標高130mのほぼ山頂付近に位置し、東峰と西峰に大きくわかれる高天神城の東峰の中心となる曲輪です。本丸の西側には土塁が残っていて、北側には虎口があり、西側下段にある的場曲輪に続いています。
現在高天神社が鎮座する西の丸は別名丹波曲輪ともよばれ、武田方の武将で岡部丹波守元信がこの曲輪を守っていたことからその名前が付いたと言われています。高天神城の西峰は攻城戦の際攻められることが多く、この西の丸は最前線の指揮所であった。
東と南への展望に開け、大手から本丸に上るルート上にある曲輪で天正二年の武田勝頼の高天神攻めの際に徳川方として籠城した旧今川家臣の小笠原与左衛門の屋敷があったことから「小笠原与左衛門曲輪」とも言われる。
今回城ラマの調査でも大池の南側ある西から鹿ヶ谷にのびる尾根に新たに三重の竪堀群と虎口らしき遺構を発見し、モデルで再現しました。これは現在大池がある場所が城内であり、ここへの敵の侵入を嫌ってその縦堀群が存在していたとが考えられます。
かな井戸と呼ばれる井戸があることでこの名前が付けられた井戸曲輪とその東側に位置する鐘曲輪は高天神城の東峰と西峰を結ぶ鞍部に位置し非常に重要な曲輪でした。
馬場平といわれているが「番する場」、番場から馬場になったとも言われている。西側から尾根道が続き、落城の際に横田勘五郎尹松が脱出した「勘五郎の抜け道」と呼ばれている。この尾根道を西に200mほど行ったところに徳川の砦の一つである林ノ谷砦がある。
現在の静岡県掛川市にあり、国の指定史跡でもある高天神城の城郭を周辺の地形を含め、1/1500のA4サイズで完全復元しました。
徳川家・武田家の攻防の舞台となり、「高天神城を制する者は遠州を制する」とまでいわれた、東遠江の要衝「遠州高天神城」をジオラマ風に仕上げました。
前作長篠城同様、城郭研究家の藤井尚夫氏の監修のもとで資料に基づき再現。
山城の魅力を存分に楽しめる作品です。
城ラマ 高天神城通常版 14,580円(税込)
城ラマ 高天神城特装版 16,200円(税込)
コンビニ・カード決済の方