増山城築城!(3)-登城三度め!上杉謙信かい!(笑)-
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みなさん、こんにちは。
さて、二度にわたり登城した増山城、三度目登城の機会は意外にも早く訪れます。増山城のキャッチコピーが「上杉謙信が3度攻めた城」となっていますので、気分は上杉謙信ですw
実は城ラマ監修の藤井先生の出身が富山でありまして、もうすでに家屋敷はないのですが、お墓があります。藤井先生が「しばらく墓参りにいっていないなぁ」と発言したことから、「お墓参りついでに一緒に増山城登りましょう!」と提案し、5月の最終週に行くことに決定!
当日は、まずは藤井家のお墓参りから。
敷地内には「赤祖父神社」が鎮座していた。
(赤祖父神社)
南にある赤祖父山をご神体としているとの話でしたが、「あかそぶ」という音から「あそぶ」「あそべ」という言葉を連想する。
「東日流外三郡誌」(偽書扱いされている)には、古代東北の津軽には「アソベ族」なる部族がいたとされる。「アソベ」の「アソ」は「阿蘇・阿曽」「浅間」などに繋がる言葉であろう。
つまりかなり古い神様が祀られている可能性がある、と感じた。
その後、井波城・瑞泉寺を訪問。
瑞泉寺は、凄く立派な寺でした。石垣も凄いし建物も立派。
巨大勢力一向宗の一端を垣間見た感じです。
(瑞泉寺式台門と石垣)
井波城は一向勢力の瑞泉寺によって建てられた城郭伽藍で、天正9年に佐々成政によって攻められ落城。
その後、大改修を経て現在の形になったと伝わる。
(井波城現地看板)
本丸・二の丸・三の丸と大手郭が遺構として残り、土塁や堀の跡もかなりいい感じです。
なお城内にある大手門の大杉は樹齢500年と言われ、佐々成政が攻めたときもこの大杉はあったらしい。「この木は歴史を知っている」と思うと感慨深い。
(井波城大手にある大杉)
その後、増山城へ。
増山城に入り、F郭からその象徴でもある堀切を見たときに藤井先生は、「これ意外とあたらしいかもね」と。なんとなくそれまでは「神保の本拠地」っていうイメージだったのが、急に「佐々・前田」の「信長家臣団の城」へとイメージが変わっていく。
(増山城名物堀切)
お城ってどういう視点で見るかによって、遺構の見方や捉え方が変わってくるし、見方を変えたことによって今まで謎だったものが、繋がってくることもしばしば。
そして神水鉢の前では「前田時代のこの城主だれ?かなり遊び人だったんじゃないかな」と。
(増山城二の丸にある神水鉢)
急いでスマホで調べてみると、前田時代の城主は中川重光。茶人でもあり文禄年間には城の修理の怠ったとして蟄居を命じられる、確かに遊び人といえばそうだ。
藤井先生曰く、一部しかない石垣や馬洗い池も(石垣に関しては神保時代の遺構とする見解もあります)、城を格好よく見せるための演出だと。
(増山城石垣)
そう考えるとつじつまが合う事もあり、改めて藤井先生の城の見方の凄さを実感したと同時に、いままでは増山城に関してモヤモヤした感じがあったのが、ようやく輪郭が見えてきた、と満足して帰京致しました。
そして、その一ヶ月後に新たな衝撃が私を貫くのでした。
続きは次回!