コラム 七難八苦と山中鹿介幸盛
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最近Champagneというバンドがお気に入りでよく聴いているのですが、シングルカットされた「Forever Young」という曲の歌詞に「七難八苦を我に与えよ」という部分があります。
この歌詞のもとになったのが、戦国時代に山中鹿介とう武将が「願わくば、七難八苦を我に与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話だと思われます。
鹿介が仕えた尼子氏は近江佐々木氏の末裔で、近江国の尼子郷を与えられ尼子氏を名乗り、持久のときに出雲守護京極氏の守護代となり出雲尼子の祖となりました。また、鹿介自身も尼子氏の庶流であったようです。
持久の子、清貞の代に富田に本拠を構え、代々富田城を本拠地とし勢力を拡大しましたが、永禄9年(1566年)に尼子義久が毛利氏に降伏し、尼子家は滅亡します。
その後旧尼子家臣をまとめて主家を再興しようと、人生をかけた人物が山中鹿介です、とにかくこの鹿介の執念というか、主家再興にかける思いというのがものすごいのです。
主家滅亡から三年後には毛利元就が九州に兵を進めている間に、尼子一族の勝久を担ぎ出し兵を挙げ出雲、伯耆に侵攻。
しかし二年後の元亀2年(1571年)には毛利元就の二男の吉川元春を中心とした軍勢に敗れ撤退する。
鹿介自身も捕えられ幽閉されるものの隙を見て脱出し、但馬に潜伏しながら再度挙兵の機会を伺い、天正元年(1573年)に因幡の混乱に乗じて再度毛利領に侵攻。
鳥取城を奪い、大友氏などの反毛利勢力と連携を取りながら因幡国内で毛利氏と争っていたが、毛利氏と但馬の山名氏が同盟を結ぶと尼子勢は孤立し、天正4年(1576年)に拠点としていた若桜鬼ケ城を退去を余儀なくされる。
しかし今度は織田信長を頼り、翌天正5年(1577年)には、織田信長の命を受けた羽柴秀吉の軍と共に毛利氏の支配する播磨に侵攻し、攻め落とした上月城に在番として入るも翌年毛利勢の攻撃にあい、兵糧が底を尽きて開城。
このとき尼子勝久は切腹を命ぜられ、山中鹿介は生け捕りにされた後に毛利輝元の陣所に護送される途中に殺害され、ついに尼子再興の夢は潰えてしまうのですが、この鹿介の主家再興に向けたパワーというのには本当に驚かされます。
もちろん、鹿介自身が尼子氏の庶流であり、尼子にこだわったというのも理解はできるのですが、彼の行動は「尼子の再興」というより、「反毛利」というほうが理解しやすいようにも思えます。
もしも彼の行動原理が反毛利というその一点に集約されていたのであったら、つまり「毛利を倒さなくては、尼子再興はできない」と思っていたのであれば、非常に窮屈だったのではなかったかと思います。
現在の我々でも同じですが、一つの目標に対して「これしか選択肢がない」というのは、非常にストレスだと思いますし、現在の社会は実はそれに近いことが起きているような気もします。
山中鹿介は、間違いなくものすごいパワーの持ち主だと思います。それをまた違った使い方をしていたら、もっと自由な発想で柔軟にそのパワーを使うことができたら、彼が自分自身にもっと許しを与えていたらどうなっていたか、想像するととてもワクワクします。
しかし、なぜ鹿介は「七難八苦を我に与えたまえ」と言ったのでしょうか。
単なる修行好き?それほどの代償を払っても主家再興したかったのでしょうか。
その答えになるかわかりませんが、ChampagneのForever Youngの歌詞にこうありました。
「全てダメになって 奈落の底に落ちたって 苦しみは目指す者にしか 現れぬもの」
なるほど、鹿介は苦しむということが、志をもって進む人にしか感じられない素晴らしいものだということを知っていたのですね。
やはり彼は素晴らしい。
それでは今日はこの辺で。