HOME > 城ラマシリーズ > 城ラマシリーズ第一弾 三河長篠城 > 三河長篠城とは
長篠城跡はJR長篠城駅から徒歩10分ほどの距離にある城跡で、1508(永正5)年、当時今川氏の武将であった菅沼元成が築いたといわれ、織田・徳川連合軍と武田軍との間でおこなわれた設楽原の戦い(長篠合戦)のきっかけになった城としても有名です。
長篠城は度合と呼ばれる豊川と宇連川の二つの川の合流地点の河岸段丘上に位置して、とても特徴的な形をしています。長篠城は何度も戦いの舞台になっていて、特に徳川と武田が緊張関係にあった時期、両勢力の間でその領有を巡って争っていました。元亀3(1572)年の武田信玄による西上作戦(遠江・三河平定戦)のころまでには徳川方の城から武田方の城になりますが、信玄亡き後の天正元(1573)年に徳川家康によって攻められ再び徳川方の城になり、家康は武田から寝返った奥平貞昌(後の信昌)を城主に据えます。長篠城は天正3(1575)年に武田勝頼率いる軍勢に包囲されますが、なんとか耐え抜き、設楽ヶ原の戦い(長篠の戦い)における織田・徳川両軍の勝利に貢献します。
その後奥平貞昌は長篠城よりも豊川の下流にある新城の地に新城城を築いてそちらに移り、長篠城は廃城となったとされています。
南西に豊川、南東に野牛曲輪、北西と北東を土塁に囲まれた60m×90mのほぼ四角形の形をしています。現在残っている遺構でとくに目を引くのが曲輪の北東にある大土塁です。発掘調査の結果、曲輪の北西にもかなり大きな土塁があったことが推測されています。
現在の内堀と長篠城址史跡記念館の間には馬出しがあったことが確認されています。馬出しとは城の防御設備でもあり、城方が攻め手に逆襲をかけるときの攻撃の拠点ともなる場所です。特に三日月の形をした堀と土塁をセットにした「丸馬出し」は武田の城に特徴的に見られる馬出しです。
野牛郭は宇連川の渡河点を抑える役割をしていました。豊川と宇連川は標高差20m以上の崖になっていて、容易に登ることはできません。両川の合流付近に櫓跡と呼ばれている高まりが残っていて、宇連川の対岸から攻め寄せてくる敵を監視する大事なポイントです。
現在長篠城址史跡記念館の北側で碁石川(矢沢)の東側と記念館の駐車場、そして駐車場の南東で内堀に沿った場所が帯郭跡です。その外側には「外堀」も確認されています。外堀の内側には一部土塁の跡も発見されており、帯郭が土塁に囲まれていたことが推測されます。
主郭の外周に沿って位置していて、大土塁とセットになっています。現在残っているのは主郭北東にある大土塁と帯郭の間にある内堀で、深さが約6.3m、上面の幅が約10~14m、長さが約90mです。
弾正郭の曲輪をなぜ弾正曲輪というのかははっきりしていませんが、設楽が原の合戦後長篠城に信長が入った陣城であった可能性もあると思います。ひょっとするとり籠城時には存在しなかった郭だったのかもしれません。
現在は国の史跡として指定されている長篠城の城郭を1/1500のA4サイズで完全復元。
織田信長、徳川家康、武田勝頼が一同に会した「長篠合戦」のきっかけになった「三河長篠城」をジオラマ風に仕上げました。
城郭研究家の藤井尚夫氏の監修のもと、資料に基づき細部にこだわって再現。
地形を含んだモデルは城郭ファンにはたまらない作品です。
城ラマ 長篠城通常版 14,580円(税込)
城ラマ 長篠城特装版 16,200円(税込)
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