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戦国期に戦国大名の軍団が対陣すると、臨時に空堀・土塁を設け陣地を造り敵襲に備えていた。各地に残されている臨時の陣地を観察すると、二種類に分かれていることが見えてくる。一つは、軍事集団に参加した武将単位で、各々が独立した「陣」を造るものである。
もう一種類は、彼我集団の間を遮断する直線的な「長城塁壁(長城・長塁)」を設けるものである。長城塁壁で有名なものは、鎌倉時代に元寇に備えた博多湾の「石築地」がある。これは国家間紛争時に、海岸に造られた長城的石塁である。石築地は、来襲した元軍の上陸を妨害できた。
南北朝期には、天王山の麓の山崎に、山腹から淀川まで柵が造られ、西国街道を塞いだ記録がある。
戦国期になると、各地で長城塁壁が造られる。長篠合戦で織田・徳川連合軍が造った「馬防柵」は有名である。賤ヶ岳合戦・小牧合戦・関ヶ原合戦においても、長城塁壁は攻者の勢いを削ぎ、防禦側の反撃のチャンスを作り出す道具であった。
一日で造られる臨時の長城塁壁は、守備兵に戦意があれば、正面攻撃での突破はできないことがほとんどである。
以上の結果は“築城作業”の軍事的価値の大きさを、ストレートに知らせてくれる。戦国武将達はこの事を熟知していた。戦国末期の戦いで勝利を得るには、長城塁壁での戦いをどう回避するのかの、知恵の絞り合いが行われていたのは納得できる。
臨時築城による長城塁壁は、幕末維新の戦いでも多用されている(幕末期には欧米の軍事技術の導入で、堡籃を用いた胸壁と、竹矢来を併用している)。維新期の戦いでも臨時の陣地の正面突破は、ほぼ不可能である。時代を超えて陣地防禦側が有利であることは共通しており、世界史的に見ても、第一次大戦終了までこの状態は継続するのである。
<写真> 設楽原決戦場の馬防柵
<図> 幕末維新の戦場では、欧米の軍事技術を応用した堡籃を並べた「胸壁」が造られていた。
(藤井尚夫著『ドキュメント幕末維新戦争』〈河出書房新社刊〉より)