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コラム 私的な伊予松山城観察ポイント

伊予・松山城。

伊予松山城天守写真01

この城郭は韓国・倭城に見られる「登り石垣」が造れており城攻めされた時の防衛の要です。

「登り石垣」で敵兵の侵攻を足止めさせるのですが
そこに「横矢」をかける為の城郭用語でいう「櫓台」
近代要塞用語では「稜堡」と呼ばれる対人射撃が
出来る場所が必要です。
伊予松山城のどこがその目的の為の場所か解説します。

図1
伊予松山城天守写真01

伊予松山城は北(赤丸)と南(青丸)に二本の登り石垣があり
緑色の矢印が攻城側の進路です。

図2
伊予松山城天守写真01

南登り石垣の守りは三本の赤線が引かれた部分に
守備側の射手が並ぶことが出来ます。

伊予松山城全景写真
伊予松山城天守写真01

赤丸の範囲内が守備側射手の行動する空間です。

図3
伊予松山城天守写真01

北登り石垣の防衛射手は「乾一ノ門」の脇(赤線)で行動
できますが図のとおりあまり広くありません。
その弱点を補う為に「乾櫓」(赤丸と赤線)が射手が行動
できる施設になっています。

乾門は大手門に比べ狭く、北登り石垣も南登り石垣に比べ
厚く造られています。
(古図を観察した事による推察)

伊予松山城は本丸・天守台の位置を考えても北に向けて防衛を
主目的とした縄張です。

この伊予松山城を築いた加藤嘉明は倭城の安骨浦城を拠点と
したと言われていますが、その安骨浦城も伊予松山城に近い
縄張の曲輪があるのは興味深いです。

追記

図2の青色の丸は「揚木戸門」とあります。
「揚木戸」とは普段は上に向かって門が開かれており
緊急時にすぐに閉門できる利点があります。

茨城県常陸太田市の「西山荘」。
二代目水戸藩主徳川光圀公が後半生を過ごした場所には
「揚木戸」が再現されています。

伊予松山城天守写真01

「西山荘」での名前は「突上ご門」と呼ばれていますが
平和な時代に「揚木戸」は茶室庭園に作られたそうです。

伊予松山城天守写真01

風流の一端でしょうが時代の違いを感じます。

著者情報

新津竜一

新津竜一

1944年、静岡市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。静岡大学名誉教授。学生時代、日本城郭協会学生研究会の立ち上げに参加し、現在、公益財団法人日本城郭協会理事長をつとめる。小田原城跡など国史跡の城跡の保存整備委員長を何ヵ所か兼ねている。主な著書に『戦国の城』『城と城下町』『中世城郭史の研究』『戦国城下町の研究』などがある。

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