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コラム 土の城から石の城へ

いま私は、史跡岐阜城跡整備委員会の委員をつとめているが、金華山々麓の織田信長居館部分の発掘調査とともに、山上部分まで含んだ城跡全体の保存整備を進めている。

 周知のように、織田信長は、那古野城から清須城、清須城から小牧山城、小牧山城から岐阜城と、城を次つぎに移していったことで知られている。もちろん、全面発掘ではなく部分発掘であるが、これらすべての城は発掘調査が行われ、ある程度のことがわかってきた。

 那古野城・清須城には石垣がなく、小牧山城から石垣が一部使われ、岐阜城でそれがふえていった様子を追うことができる。小牧山城では、山上部のところに低い石垣が二段あったことが発掘調査の結果わかってきた。岐阜城の山麓居館の石垣も低い石垣で、小牧山城段階と大きなちがいはみられない。小牧山城の築城が永禄6年(1563)からで、岐阜城の築城が同10年(1567)からで、4年しかたっていないので、技術的には大きな進化はなかったと考えられてきた。

ところが、最近、石垣前面の樹木を伐採したところ、山上部の石垣が観察できる状態となり、「高石垣」とはいえないまでも、かなり高い石垣が姿をあらわし、これまでの考え方を変えなければならないと思うようになってきた。小牧山城段階と岐阜城段階では、信長の石垣に対する考え方に変化があったと考えられるのである。これは、信長自身にとって、土の城から石の城への転換をはかったものといってよい。

 今回、よく見えるようになった高い石垣は、その実験台だったのかもしれない。その技術がつぎの安土城で全面開花することになる。ただ、残念ながら、山上部の高い石垣が、いつ積まれたかはわからない。城を落とした永禄10年以降であることはもちろんであるが、信長が城を岐阜から安土に移したあとも、子信忠が城主となっているので、信忠時代の可能性もあり、速断はできない。

 もし、安土城築城以前だとしたら、永禄10年から城を移す天正4年(1576)までの間に、「高い石垣を積みたい」と信長が考えた何か要因があったはずである。このあたり、推測でしか物がいえないが、永禄11年(1568)の足利義昭を擁しての上洛のとき、近江の六角氏を攻めており、そこで、六角氏の観音寺城の石垣に触発されたのではないかなどと考えている。

姿を現わした岐阜城山上部の石垣
姿を現わした岐阜城山上部の石垣
(姿を現わした岐阜城山上部の石垣)

著者情報

小和田哲男

小和田哲男

1944年、静岡市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。静岡大学名誉教授。学生時代、日本城郭協会学生研究会の立ち上げに参加し、現在、公益財団法人日本城郭協会理事長をつとめる。小田原城跡など国史跡の城跡の保存整備委員長を何ヵ所か兼ねている。主な著書に『戦国の城』『城と城下町』『中世城郭史の研究』『戦国城下町の研究』などがある。

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