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コラム 土に刻まれた『戦闘教範(コンバット・マニュアル)』

「大名系築城」という言葉が城郭研究の用語にあります。何を意味するかというと、各戦国大名には独自の築城技術がありますよ、ということ。

例えば、代表的な大名系築城である「織豊系城郭(織田氏と豊臣氏系列の築いた城)」だと、外枡形虎口がその象徴的な存在だし、ポピュラーなのは武田氏の城にある丸馬出でしょう。

 研究者のなかには「大名系築城」の存在を否定する方もいて、そうした方の論にも説得力があるんだけど、私は「大名系築城」が存在する派です。ではなぜ各戦国大名が独自の築城技術、正確には、それぞれの戦国大名ごとに共通する縄張りの特徴やパーツを持つのでしょうか。ここで高天神城に即してそれをみていきましょう。

 まず初めに、武田氏の築城の特徴とされる丸馬出(のちに徳川氏もけっこう使用するようになる)を説明しましょう。丸馬出とは半円形の小曲輪で、虎口の正面に造るものと、山城などで山腹に設けるものの二つに分けることができます。前者は城から出て逆襲を行う際の拠点、後者は堡塁としての機能が存在し。共通点としては弓鉄炮の射撃陣地として射界が広くとれることです。

諏訪原城二の曲輪中馬出と三日月堀
(諏訪原城の丸馬出)

しかし高天神城の場合、逆襲拠点としての丸馬出は存在しません。この城では、地形的に逆襲によって敵を撃破することができないからです。さらにもう一つの堡塁としての丸馬出もやはり存在しません。ありゃ、これは武田の城のではないのか? 武田氏は最後まで在地領主の小笠原氏の城を、そのまま使用したのでしょうか?

実は武田氏の丸馬出は、曲輪のエッジを彎曲して形成する(「弧状塁線」という)、彼らの城造りの特徴から発達したものとされています。さらに武田氏の築城の特徴として、比較的急峻な斜面でも横堀を巡らします(これは、武田氏のライバルであった後北条氏も同じ)。

ここでキットをお持ちの方は、高天神城の西峰北側の曲輪群をよく見てください。

高天神
(西峰北側の曲輪群)

横堀が巡っているうえに、なんとなく塁線が曲線的ではないでしょうか(1/1500というスケール・エフェクトを差し引いてみてください)。本丸以下の東峰の曲輪群が切岸と土塁のみを防御構造としているのと明らかな違いがあります。つまり、西峰の、とくに北の曲輪群は、武田氏がこの城を攻略後に改修を行った、そして武田領の各地から集められた部隊(当時の言葉では「番衆」という)が守っていた地区と言えるのです。そのような視点でみると、西の丸も井楼曲輪北東角もなんとなく塁線が曲線を描いています。これは、山腹に設ける堡塁としての丸馬出と同様の機能を持つ曲輪と評価できます。ちなみに堡塁機能をもつ丸馬出は必ずしも円形にはならないことも知られています。

では最初の設問にもどり、なぜ「大名系築城」が必要とされるのでしょうか。

戦国大名は、そのときどきの戦略状況に合わせて、家臣たちを各所に城番として派遣します。狭い領域しか持たない大名ならば、家臣も土地勘のある場所や城に派遣されるわけですが、大規模な戦国大名の家臣になるとそうもいきません。まったく見ず知らずの土地・城に行かされるのです。そのうえ、主力の野戦部隊の兵力を一定数確保したい戦国大名は、一つの独立した部隊(「備」という)を丸々、ある城に送り込むこともできません。各備えから少しづつ部隊を抽出して、それを有力家臣に指揮させて城の守備隊とするのです。城将と城番です。

高天神城の場合も、足軽大将・横田尹松を城将に、在地武士(小笠原氏旧臣)のみではなく、甲斐・信濃・上野と、武田領国全域から集められた混成部隊でした。こうした寄せ集めの部隊にどのように城をまもらせるか?

ここで、「大名系築城」と呼ばれる築城技術が必要になるわけです。

つまり、大規模戦国大名の城は、初めてその城を守る将兵でも、彼らがすぐに戦力となるべく、パーツの共通化が図られているのです。城のパーツという物理的な存在は、寄せ集めの部隊でも、その行動を共通化でき、指揮官はその能力をあるていど計算することができたと考えられるのです。

これは近代以降の軍隊が共通の教範によって教育訓練されて、すくなくとも指揮官は、着任のそのときから最低限の戦力をアテにできるのと同じことといえます。「大名系築城」とは優れて近代的であるとともに、文書化された教範が無い時代に登場した「土に刻まれた教範」ともいえるのです。

このコラムをお読みになった腕に覚えのあるモデラーの方、すごい無茶振りではあるのですが、西の曲輪群には横田家の「白地に八の字」の旗を立ててほしいなぁ。

文中の写真はお城ジオラマ復元堂で挿入したものです。

著者情報

樋口隆晴

樋口隆晴

1966年東京生まれ フリーの雑誌編集者・ライター・イラストレーター ライターとしては、軍事史研究、とくに用兵思想や軍隊の運用を主なテーマとした記事を執筆。現在、『歴史群像』(学研パブリッシング)で小部隊の戦術と用兵思想をテーマにした「戦闘戦史」を隔号連載。城郭関係の主な著書は『戦国の堅城Ⅰ』『戦国の堅城Ⅱ』『軍事分析 戦国の城』(共著)。

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