お城ジオラマ復元堂

045-562-7182
 

城ラマシリーズ 城ラマ奮闘記

HOME > 城郭コラム > コラム 鞠智城 東京シンポジウム

コラム 鞠智城 東京シンポジウム

7/27(日)に昨年に引き続き、熊本県にある鞠智城の東京シンポジウムに行ってまいりました。

今年もこのシンポジウムのご案内を熊本県東京事務所の今村様に頂きました。
どうもありがとうございました。

鞠智城シンポジウム

さてさて、今回のテーマは「律令国家の確立と鞠智城」~698年「繕治」の実像を探る~ということで、『続日本記』文武天皇2(698)年5月条に出てくる「繕治」について、またそこからさらに、鞠智城が律令国家体制の中でどのような位置づけであったかや、築城年代などについても講演者の方々がそれぞれの見方を示してくれました。

鞠智城シンポジウム

個人的には東洋大学文学部教授の森氏の見方が楽しかったです。
森氏の説明を聞いて感じたことは、698年の繕治が白村江の戦いからの対新羅、唐との絡みで語られることが多いですが、考えてみればまだ南は隼人、北には蝦夷という従属していない勢力があり、その勢力が当時の国家体制の中で国内問題であったかというと、実はそうではなかったのではないかと思いました。
朝鮮半島への軍事的な介入はかなり前、すくなくとも4世紀から頻繁に行われているので、ある意味当時は蝦夷の方が遠い存在で、感覚的には朝鮮半島の問題の方が国内問題に近かったのかもしれません。

また、いつ築城されたかという問題に関しては、鞠智城の立地をみると菊池川が城の南と西を通っており、大宰府方面へ抜けることを警戒する立地になっていますが、大宰府の手前には斉明天皇の征西における朝倉橘広庭宮があり、この辺りは実は邪馬台国北九州説の有力な推定地でもあることから、原鞠智城は相当前から存在していた可能性があると個人的には思っています。覚的には朝鮮半島の問題の方が国内問題に近かったのかもしれません。

城が立っている場所というのはその位置する地形によって、古来よりずっと大事な場所であり、鞠智城もその例外ではなかったとおもいます。
つまり、大宰府や朝倉宮のあった場所は、ずっと昔から大事な場所で、鞠智城もそこを抑える拠点で在り続けていたはずだと考えています。

実は私も前回のシンポジウムの後、一度鞠智城に行きました。
例の八角堂の柱、九曜紋のあった場所ですが、柱はほぼ正確に東・西・南・北・南西・南東・北西・北東を指していましたし、それが「とほかみゑひため」に対応しているように感じました。

鞠智城シンポジウム

細川九曜

城の立地している場所は風の通り道であり、また、現在としては城外ではありますが、城の北西にある松尾神社もなにか重要な役割を果たしているように感じました。

この城を理解するためには、この時代の人が信じていた価値観を共有する必要があり、そういう意味では現在の視点からでは紐解くことが難しいかもしれませんが、古代史のロマンを感じる素晴らしい城であることには間違いありません。

また、行ってみたいな~と思っちゃいました。

以上です。

著者情報

二宮博志

二宮博志

お城ジオラマ復元堂のご訪問ありがとうございます! 城郭復元マイスター 二宮博志です。 よろしければ城ラマのトップページもご覧ください! お城ジオラマ復元堂トップページ

このエントリーをはてなブックマークに追加
開発奮闘記一覧