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コラム 長篠城と吉田城にみる共通性

大名系城郭とか、大名系築城という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

出版されている本にも丸馬出は武田流だとか、障子堀は北条流だとか色々書かれているのですが、私も全国の城の特徴を知っているわけではないので、何とも言えません。

ただし城めぐりをしていると、特徴的な城の作り方というか、共通性みたいなものを感じることがあります。

今回は私共お城ジオラマ復元堂が城ラマ第一弾として選んだ長篠城と徳川の東三河の中心の城である吉田城にある共通性をみてみようと思います。

長篠城といえば長篠合戦で有名な城ですが、城の最終段階では徳川氏が武田氏の来襲に備えて大規模な拡張工事を行っていて、調査の結果武田氏の城に象徴される丸馬出があったことも分っています。しかし、長篠合戦後しばらくして廃城になってしまいました。

長篠城遠景(長篠城南方より5)
(長篠城遠景)

一方吉田城は徳川氏の東三河の中心拠点として重要な役割を担っていた城です。家康がこの城を徳川四天王の一人、酒井忠次に任せたということでその重要さがわかります。吉田城の方は近世城郭として整備され、幕末まで吉田藩の城として存続しています。

吉田城鉄櫓3
(吉田城鉄櫓)

さて、今回見て頂きたいのは「虎口」です。

現在の長篠城の遺構では確認できないのですが、調査の結果丸馬出から本丸への虎口がクランク状になっていることが分かりました。それを「城ラマ」の長篠城でもしっかり再現しています。

城ラマ長篠城丸馬出と虎口
(吉田城鉄櫓)

一方吉田城の本丸への虎口をみてみると、こちらもクランク状の虎口。非常に似ています。吉田城は近世城郭として整備されていますが、縄張りは戦国期のものをある程度踏襲していると考えられます。

吉田城本丸虎口

この虎口形状は、ある時期徳川が多用していた形なのかもしれないですね。

現在でも、ある方法が実際に試され良い結果がでると、それが一つの流行となって、同じものが多く作られることがあります。

戦国時代の築城においても、もちろんそれは行われたハズで、この虎口の形状は当時の徳川軍が戦うのに戦い易い形で、ある一時期流行っていたのではないか?と思っています。

4/5に学研より発売された「歴史発見」の「私の推し城」コーナーでもこの虎口を「推しポイント」として挙げています。この共通性は城ラマの長篠城の現地視察で吉田城へ立ち寄った際、城郭研究家の藤井氏に教えてもらいました。

みなさんも、城歩きをして楽しい発見があればぜひ教えてください。

それでは今日はこの辺で!

著者情報

二宮博志

二宮博志

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