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コラム お城の見方(軍事的要素からみた長篠城)

お城の楽しみ方は、人それぞれ千差万別なのだけど、多くの人が、迷路のように入り組んだ構造や空間や、そこからの景色を楽しんでいるようだ。山城の主郭などからは、街道や集落。海城ならば沿岸航路が手に取るように見え、ちょっとした殿様気分になれる(本当は、ほとんどの城に城主はいないのだけれど)。

いうまでもなく、城は軍事構築物、いわば要塞だ。たしかに統治の象徴として「見せる城」というのもあるのだけど、なにを見せるのかというと、軍事力そのものをみせている(そうでなければ権力者は寺社か豪華な館を造るはずだろう)。

そして城を楽しむ要素である「迷路のように入り組んだ構造や空間」も「城からの眺め」も、実のところ軍事的な要素なのである。

なにかこう書くと嫌味な感じがするけれど、歴史の楽しみの本質は先人の知恵に思いを馳せることだから、軍事面に楽しみを見出すのは悪いことではない。私もそうだが、多くの城郭ファンがまずそこに城のカッコ良さを見出すのだし、城郭研究や中世史研究で本格的な軍事研究はこれから発展させなければならない分野なのだから。

だけど、城の構造が軍事に直結しているのはわかるけど、なぜ城からの眺めが、軍事と結びつくのか?

話は、ちょっと小難しくなります。

 軍事は、政治に従属するものだけど、軍事という概念の骨幹をなしている戦争という行為に必要な視点として「戦争の階層構造」というものがある。よく言われるのが「戦略と戦術」だが、最近の軍事学では、はもう一つ「作戦」という階層をここに入れる。

上から並べると「戦略次元」→「作戦次元」→「戦術次元」。
それで戦略次元の上が、軍事が奉仕する対象としての「政治」となる。で、下部階層は、上部階層が目的とするところを達成する手段となるのだが、下部構造は上部構造を規制する。「戦術的な勝利では戦略的な敗北をひっくり返せない」とはよく言われるが、逆にどんな素晴らしい戦略でも作戦や戦術がしょぼいと、絵にかいた餅だ。

なんか、話がどんどんお城から離れているが、ここから具体的に述べていこう。

 すでに城ラマ長篠城のキットをお買いになった方には、藤井尚夫先生の解説に屋上屋をかけるような話で恐縮なのだが、ここからは軍事の階層構造をもとに長篠城を考えてみる。

長篠城遠景(長篠城南方より5)
(長篠城跡)

 長篠城は、在地領主の菅沼氏が河川流通を支配するために築いた城だと考えられている。だから周囲の高所から見下ろされる「戦術」上の不利を忍んでも、川の合流点を直接軍事力でコントロールできる場所が必要とされたのだろう。菅沼氏の政治にとって、あの場所は「戦略」的に重要だったのだ。そして地形の不利はあの場所に城を築くという「作戦」によって補う。ただし、その城は現在伝わる城域よりも小さく単純な形態だったと考えられる。山間の小領主である菅沼氏の軍勢は少なく、また複雑な構造の城を使いこなすほどの「戦術」能力を持っていなかったはずだ。

 次に、この城を領有した武田氏は、やはり城の位置を変えず、その規模も菅沼氏時代と同じ程度にとどめたと考えられる。というのも、三河・遠江の両戦域に迅速に物資を運ぶために、この場所の「戦略」上の重要性は変わらなかった反面、広大な戦域で戦う武田氏にとって、最前線でもない城に多くの兵力を配置することはできず、「作戦」上もその必要がなかったからだ。ただし、丸馬出は新たに築いたのだろう。城郭の防御戦闘で馬出を使用した積極的な逆襲(防御において敵を撃破する行動)が、どうやら武田軍の定型化された「戦術」だったようなのだ(この丸馬出は徳川氏も後に多用する)。

長篠城は、徳川氏(主体となったのは奥平氏)によって、おそらくキットのような姿になった。ただし、徳川氏は最前線の城にもかかわらず、地形的に不利な場所にあるこの城を捨てていない。なぜだろう。

 領内を武田氏に蚕食される徳川氏にとって、武田氏に早期に痛撃を与えるのが全般的な「戦略」であったと考えられる。しかし、武田氏が「戦略」上の主導権を握っている以上、いつどこでその機会が巡って来るかはわからない(むろん長篠城を餌にはしているが、その餌に武田氏が食いつくとは限らない)。だから、そう多くの兵力を長篠城に送れないのだ。地形的に有利な付近の高地に城を築こうにも兵力も時間も足りなかったのである。

もっとも、長篠城を核にした後詰会戦を考えていたことはたしかで、200丁の鉄炮を入れている。現況の残存遺構の塁線が直線的で、かつ逆襲拠点である丸馬出の機能も、帯曲輪を設けることで殺してしまっているのは、射撃ラインを布きやすくするとともに、鉄炮の火力で徹底した持久戦闘を行うという「戦術」上の要求からきているのだろう。

まとめると、長篠城は、城の持ち主が変わるたびその形状を変えてきたのだが、その選地は変わらなかった。しかし場所が変わらない理由は、それぞれ固有の状況に基づくものだったといえるであろう。

城の構造、いわゆる縄張りと、城の選地は複雑に絡み合っているのだけど、それを「軍事の階層構造」という現代軍事学の視点で考えると、意外と筋道たって理解できませんか。そして、城からの眺め、または外から城を眺めることは、城の選地を確認し、なぜそこに城が必要とされているかを理解する方法でもあるのだ。

以上のことをどこか頭の隅にいれつつ、主郭などでのんびりコーヒーでも飲みながら、あれこれ想像して景色を眺めたり、周囲を歩きまわったりすると、ちいさな城でもたっぷり楽しめること請け合いです。

ちなみに、長篠城を訪ねることがあれば、キットで武田軍の攻城陣地があるあたり(道路際)から、建物と木間越しに長篠を見ることをお勧めします。奥平信昌の城将として凄さの一端が理解できます。

長篠城帯廓土塁方面より笑いの土塁を望む4
(城ラマ三河長篠城ムック本 P48挿入写真)

著者情報

樋口隆晴

樋口隆晴

1966年東京生まれ フリーの雑誌編集者・ライター・イラストレーター ライターとしては、軍事史研究、とくに用兵思想や軍隊の運用を主なテーマとした記事を執筆。現在、『歴史群像』(学研パブリッシング)で小部隊の戦術と用兵思想をテーマにした「戦闘戦史」を隔号連載。城郭関係の主な著書は『戦国の堅城Ⅰ』『戦国の堅城Ⅱ』『軍事分析 戦国の城』(共著)。

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