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黒い線は石垣
黄色は大手門の位置
赤い線は会津若松城内の曲輪から狙える方向と位置を表し、
一本の長さは50m~60m。
○番号は写真の番号とリンクしている
「①の写真」の説明
①の位置は大山巌(弥助)が撃たれたとされる場所
今は茶屋が建つ。
「②の写真」の説明
②の位置から見る伏兵曲輪(左)と本丸(右)
「③の写真」の説明
③の位置から本丸を見る。
鋭角の突端に北隅櫓が建つ。
戦時に城方の守備兵が多く配置される。
「④の写真」の説明
④の位置から北出丸の石垣を見る。
戦時は石垣の上から城兵が城壁越に射撃をしていた。
「⑤の写真の説明」の説明
⑤の位置から本丸方向を見る。
手前の石垣の右側には石垣がなかった。
これにより大手門を破ろうとする攻城側は本丸から銃撃される。
「⑥の写真」の説明
⑥の位置から大手門跡を見る。
黄色のラインが当時、門があった位置。
「⑦の写真の説明」の説明
⑦の位置から大手門方向を見る。
土塁の上部にあがれるように塁壁は緩斜面になっている。
「⑧の写真」の説明
⑧の位置から本丸方向を見る。
右手は本丸と北出丸を結ぶ橋。遠くに天守が見える。
「⑨の写真」の説明
伏兵曲輪⑨の位置から北出丸大手門方向を見る。
写真⑤でも説明したが大手門の本丸方向の石垣が築かれていない。
城門に向かう攻城兵は背中を見せ、その背中に攻撃する縄張になっている。
これは江戸城桜田門と同じ構造がみられ、城門を破ろうとする攻城兵は左方向から攻撃される。
当時の戦闘状況の推察・・・
記録によると大山弥助は
「右太腿を内側から撃たれていた」
とある。
この事から現在、茶屋(①の写真)がある位置で本丸方向に向かって砲撃を加えていた時に伏兵曲輪からの銃撃で撃たれた事になる。
しかし、当時の会津城守備隊の数が極端に少なくなっており伏兵曲輪に守備兵を配置した可能性は少ない。
そこで弥助が撃たれたもう一つの可能性として茶屋から北出丸に向かう橋の上で本丸方向からの銃撃に傷ついた可能性が高い。
そこから考えられる大山砲兵隊の行動・・・
会津若松城での戦いは新政府軍※にとって会津城攻撃初日※の事で一気に城内に攻め入る作戦が展開していた。
そして大山砲兵隊は工兵隊の援護(簡易塁壁の構築)をうけつつ大手門に大砲を運搬していたと思われる。
大砲による「城門破り」を行う為である。
しかし関ヶ原以降に入封した生粋の戦国武将、加藤嘉明の子・明成により築かれた北出丸の縄張はそれを許すことはなかった。
会津戦争時に城内は「老人、女、子供」しかいなかったと記録にある。
これは戦国時代の最も活用された「戦闘訓練の少ない雑兵」を戦線に投入できる工夫を会津若松城でも行なわれた証明である。
西南戦争時に西郷隆盛は熊本城攻撃で
「我々は清正公と戦っている」
と言っている。
この会津若松城の戦いでも大山弥助、そして新政府軍※は戦国時代の武将・加藤明成と戦っていた事になる。
なおドラマ等で山本八重が最新式銃「スペンサー銃」を何発も銃撃する場面があるがスペンサー銃は薬莢式の銃弾を使う為、補給ができない。
薬莢式銃弾を作る事ができないためである。
何発の弾を城内を持ちこめたかは不明であるが、沢山の銃弾を持っているはずもなく早々と弾を撃ち尽くした八重はスペンサー銃を放り出し常備されている旧式銃を使用していた事であろう。
「北出丸大手門図」はグーグル・マップをベースに作成。写真は著者撮影。
※新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、40キロ余りを急進して慶応4年8月23日(1868年10月8日)朝に城下に突入して城を一気に
落とす作戦をたてていた。
明治改元となるのは明治元年9月8日(1868年10月23日)なので会津若松城での戦いの時はまだ「薩長他連合軍」であった。